シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

時代を越えて

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今日の『ゲゲゲの鬼太郎』を観て思う事があった。


最近、毎週日曜日の鬼太郎が何かを考えるきっかけを与えてくれるそんな存在になりつつある。
俺が子ども時代にやっていた鬼太郎シリーズ(第3作・ヒロインが夢子ちゃん・主題歌が吉幾三)が好きだったのもあり、もちろんファミコンの鬼太郎もかなりやり込んだ。そんな昔から、鬼太郎が好きだったというのもあるからなんだろう、俺にとっては、もはや、毎週の楽しみにすらなっているのだ。

そんな『ゲゲゲの鬼太郎』の今週は、牛鬼が出てくる回だった。

牛鬼と言えば、

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こんな姿がすぐに浮かび、とても強くてヤバい妖怪である、という事を言える位には、鬼太郎ファンではある。


そんな、牛鬼が出てくる回でとても重要な役回りだったのが、島の少年に「牛鬼伝説」を語り聞かせてくれていたおじいさんだ。アニメなので年齢の推定は難しいけれども、おそらく80歳は超えているかという風貌だ。もしかしたらもう少し上かもしれない。
で、そのおじいさんが語り継いでいた「牛鬼伝説」のおかげで、最期はとりあえず難を逃れる事ができたんだけれども、この話のまとめ方について今回は思う事があった。

いつもだと、この社会の比喩として色々思う事があったんだけど、今回はこのおじいさんの立ち位置というか存在についてだ。


このおじいさん、恐らく戦争以前の生まれのはずだ。
何故そう思うのか?

仮に、戦後生まれのおじいさんだとしたら、70歳前後だろう。
70歳前後であれば、その青年時代は今から50年ほど前。
つまり、1960年代に青春時代を送っている事になる。
1960年代と言えば、東京オリンピックやテレビのカラー放送、ビートルズの来日やグループサウンズの流行、昭和の映画スターの全盛期など。世の中が娯楽に溢れていた時代だ。
その時代を青年として過ごした人が、仮に年を取ったからといって、自分の住んでいる土地の「牛鬼伝説」なんかを語り継ぐだろうか?それも、自分が信じていて、孫にも真実として語るなんて。
仮に自分が幼少の頃に伝え聞いていたとしても、その話を、何の前兆も無い状態でいきなり、年を取ったから老人になったからという理由で語り継ぐというのは考えずらい。
もちろん、もしかしたら、「牛鬼伝説」にまつわる恐怖体験を自分がしたから警鐘を鳴らす意味合いで語り継いでいるのかもしれない。でも、これは考えずらく可能性としてはあまり高くない。

じゃあ、もっと年上であればどうか。
戦前生まれであれば風貌からして80歳を超えているか。
だとすると、幼少期に戦争に突入する前の時代、その頃であれば周囲の大人は明治時代生まれ、周囲の老人達には江戸時代生まれがまだまだたくさんいた時代だと考えられる。
だとすると、文明開化前から伝わる「物の怪」の類の話も語れる人がたくさんいたんじゃないかと想像できる。そして、現代の流行に直結するような文化が流行するのもこの世代の人からしたら、青年期を終えた頃、もう家族を持って家庭人としても社会人としてもある程度の落ち着いた時代に入ってから。つまり、若者ではなくなった後の話。

こう考えると、やはり「牛鬼伝説」を語り継いだあのおじいさんは戦前生まれであると考えるのが妥当だと思われる。


ここまで読んでくれた人は当然思うでしょう
「で、それが一体何なのか?」


この話、戦前と戦後が大きな分岐点だったんじゃないかなというのが今日の思った事だ。
何の分岐点かというと、世界が終わるかどうかの分岐点。

この「牛鬼伝説」のピンチについて、このおじいさんがいなかったらこの島だけでなく世界は終わっていた可能性は非常に高い。
だけど、このおじいさんが「牛鬼伝説」を正確に語り継いでいてくれたから、島は世界は救われた。
おじいさんが語る、誰もが信じない、老人の与太話だとして笑って通り過ぎるような「牛鬼伝説」がこの危機を救った。そして、そもそも、この危機を起こさないようにするための方法すらも、このおじいさんが語り継ぐ話の中に含まれていたのだ。

つまり、老人の語る昔話には大切な話がたくさんあるのではないかという事。
いや、正確に言うと「老人の語る話」ではなく、「昔からずっと語り継がれてきて、今も老人が語り継いでいる話」だ。

語り継ぐには、語り継がれるには、何らかの理由がある。
その理由が、個人的な理由でなければ、それは多くの人にとって有用なものなのかもしれない。
でも、その有用なものも語り継ぐ人がいなければ、そこで途絶えてしまう。

「俺にとっては意味がないから」
「俺はそういうの好きじゃないから」
「俺には関係ないし」

そういう事で、分断してしまった何かが、自分にもあるのかもしれない。
もちろん何でもかんでもは伝えていけないし、そもそも、何が伝えるべき事なのかの選別もできないのかもしれない。
だけど、先人が、歴史が、「これは後世に残すべき」としているものは、仮に自分に理由が分からなくても残すべきなのかもしれない。

だって、自分にはそれを「残さない」と判断する理由が特に無いのだから。それを判断できるだけの材料が何も無いのだから。
この時に、自分の感覚や感情を信じて断定してしまうのは、もしかしたら愚の骨頂なのかもしれない。


やっぱり、学ぶべきは自分の経験ではなく、歴史に学ばないといけないのかもしれない。
そんな事を、今日の『ゲゲゲの鬼太郎』を観て思ったのだ。