シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

YOUも大泥棒になっちゃいなYO

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「仕事も芸事も同じようなモノ」

 

ずっと前からこんな事を考えている。

 

できるようになるまでは時間がかかる。

もちろん個人差も大きく作用する。

最初からどんどんできるようになる人もいれば、

できるようになるまでとても時間がかかる人もいる。

かと思えば、ある一定のところまではできるようになるまでとても時間がかかって苦戦していたのに、ある段階から水を得た魚のようにスイスイできるようになって、あっという間に遠くまでいってしまう人もいる。

その反対に、途中まではスイスイできていたのに、ある一定のところで留まったまま、どんどん後続に抜かされていく人もいる。

そして、あまり多くはないけど最初からなかなかできなくて、その先もなかなかできない人もいる。

 

『できない人』から見れば、何の苦労も悩みも無さそうに見えているかもしれない『できる人』。

『できる人』から見れば、何の重圧も責任も無さそうに見えているかもしれない『できない人』。

 

そのどちらにも、その人なりの苦労はあるかもしれなくて、どっちの立場も気持ちも理解できるよという人はあまりいない。

だけど、特定のカテゴリーに区分される先人達には、どちらの気持ちも理解する事ができる場合が多々あるのだ。

 

そのカテゴリーとは、

そのモノを「好き」だという気持ちを持って続けている人達だ。

 

「好き」という気持ちがあって情熱を傾けられるかどうか。

それさえあれば、遠回りするかもしれないけど、苦労はするかもしれないけど、どうにかして上手くやろうと考えて、工夫して、続けていく。

 

諦めず腐らず淡々と、だけども、情熱と愛情を持ってやり続けていた人だけが最後に残って、誰も届かないような結果を出しているのだ。

 

もちろん、「好き」という気持ちとは関係なく、仕事で結果を出している人も世の中にはたくさんいると思う。

その場合には、「仕事も芸事も同じようなモノ」という考え方は通用しない。

仕事の結果は、いわゆる“数字”で示す事ができるからだ。

その“数字”をもって「結果を出しました」と周囲から承認がもらえるし、仕事はそれで良い場合がほとんどだ。

“数字”という結果を出しさえすれば、それで万事OK。なんの問題も無い。よくやった。

 

だけど、芸事はそうはいかない。

“数字”ではかれる成果ばかりじゃないのだ。

それは多くの人が分かっている事だし、芸事をやった事が無くても、芸事で楽しませてもらう観客側に立って考えれば分かる事だ。

仮に、興行収入と言う数字が大きい芸事があったとしても、それを観客として見聞きした時に、「クソつまらん」と思った事は誰しも経験があるだろう。

 

往々にして、優れた芸事を披露してくれるのは、それを「好き」な気持ちが伝わってくるような人達ばかりのはずだ。

好きでもない芸事を続けていて、真の意味での“成果”を上げている人なんているはずないのだ。少なくとも俺は見た事も聞いた事もない。

 

そんな、優れた芸事の達人や、優れた仕事の成果をこの世界に残している人達が著した物を読んだり話を聞いたりしていると常に思うのは、やっぱり、「教え事じゃないモノを如何に自分のモノにするのか」という部分の強さだ。

ただ口を開けて待っていて、教える人の技量がとても優れていたから自分の実力がここまでになった、というような事を言っている人はいないのだ。

確かに「優れた師について習ったからこそ今の自分がいます」という人達はたくさんいるけれども、一から百まで現在の自分自身がやっている事まで全て手取り足取り教わった通りにやっているという事では全くないのだ。

という事は、やっぱり、教え事じゃないモノを身に付けられるかどうか、それが分かれ目になってくるのだ。

 

好きこそ物の上手なれ

技は見て盗め

 

その辺の教えを、自分で考えて実践できるかどうか。

これがモノを言うじゃないんだろうか。

 

だから、「仕事も芸事も同じようなモノ」なんだと思っているのだ。