シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

至高の思考とは一体何だ?


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誰しもが誰にも教わったことの無い事柄なのに、誰もが「出来ることが当たり前」だと思っている事柄がある。

そんな事柄の中の代表格と言えば『考える』という行為だ。

『考える』について、子供の頃にやり方を教わったという人は多くはないだろう。こんな事を書くと、たくさん勉強をしてきた人は「そんなの勉強してきた中で散々やってきたよ」と思ったりするのかもしれないけど、俺は勉強をしてこなかったので実際のところどうなのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、『考える』についてを勉強の中で習得できるとしたら、ある一定のレベルを越えるような学歴の人達は軒並『考える』力が高くてしかるべきなのに、現実はそうなっていないので少なくとも全ての人が勉強の中から『考える』のやり方を習得できるわけではないという事が証明されるのだ。

そんな、誰しもが教わったことの無い『考える』の仕方についてなのに、何故か誰もが『考える』という行為は誰でも自然にできるものだと思っている節がある。かく言う俺もそう思っていた内の一人だ。

だけど、今では「『考える』は誰もが出来る事じゃないのでは?」という疑念を抱いている。もう少し言うと、「『考える』と『連想する』を区別せずに混同して使っている人が多いのでは?」という仮説を立てているのだ。
そして、この仮説を持って様々な人達の言動を分析していくと、恐らくビンゴである可能性がグングンと高まっていくのだ。

もし相手が、『考える』と『連想する』を混同している可能性が高い場合には、「ちゃんと考えてね?」という投げ掛けをする事や「あの人は言うことがコロコロ変わってやりづらい」と不満を持つ事は、相手にとっても自分にとっても何も意味がないどころか、お互いにとって良いことが無いし、もしかすると相手から恨みを買う事に繋がる可能性がある。そんな悲劇が様々な組織の中で毎日のように繰り広げられているような気がしているのだ。

『考える』を正しく行える人は、貴重な人です。これだけは、間違いの無い事実であると俺はそう考えるのです。

 

さて、俺は正しく『考える』ができているんだろうか?