シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

見えないモノを見ようとして


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最近、色んなところで色んな人が口にしている『持続可能性』。英語だとサステナビリティと言われている。

この、『持続可能性』が「ここに確かに存在する」のを感じとる事ができる瞬間がある。

もちろん、形があるものではないし、手触りや重さがあるわけでもない。文字通り、持続可能性という、いわゆる可能性なのだ。可能性は「ある」「ない」で表現されるが実際には「感じる」モノだ。つまり、現物は存在しない。それが可能性というモノの最たる特徴なのだ。

姿形は無いけれども、「ある」か「ない」かは明確に「感じる」モノ。これに近いのは『希望』とか『将来性』とか『成長』とか『期待』とか、いわゆる未来を指す言葉は大体こういう構造だ。
未来とは、未だ来ていないと言うことであり、今よりも先の時間軸の話だから、未確定であり、思っていたモノと違う事が待っているかもしれないなんてことはあり得るのが当然だ。つまり、確定要素として計画を立てたり、予定組む事は本来できないはずなのだ。
だけど、計画も予定も、当然のように組まれる。もちろん、実際に動き出してみたら現実とは違うのでそれらを組み直して目指すべき未来に進んでいく。これが世の中の当たり前だ。

てことは、誰もが未来を「ある」と感じていて、誰の目にもそれが見えているというのを前提としているという事だ。見えていたモノと現実が違えばそこから立て直しをはかる。その立て直しが上手い人とあまり上手くない人と全くできない人がいて、それらはきっと、未来を見て感じ取れる力の差なのかなと思ったりする。

そんな、目に見えない未来の時間軸にあるモノを感じとるという事が、俺にもできるようになってきた。『持続可能性』を感じ取れるようになり、そんな事を思うのだ。俺が感じ取ったこの『持続可能性』をこれから如何に言葉にして外化していくのか。どうやって自分以外の人に伝えていくのか。それが俺の課題なんだろう。

例えば自分が感じている『希望』について、人に語って伝える事ができるようないわゆる概念を、『持続可能性』についてもできるように作り上げたい。

そんな事を今日は思った。
これを読んでくれた人がいたら、何を言ってるかよくわからないかもしれないけど、安心して下さい。俺もよくわかっていないんだと思います。