シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

本の虫への道のりは遥かに険しい


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どうにかこうにか、ようやく終わった。

2020年の目標として立てていたモノの一つに『読書』がある。とりあえず1ヶ月毎の目標値をさだめたけど、それがとりあえずクリアできた。

まあ、クリアしたのはあくまでも数値目標なので、それをクリアしたからと言って明確に数値化できる何かが高まったり強化されたりしたわけではないんだろう。だけど、数値化できない何かしらの部分は何らかの影響を受けているんだろうとは思うのだ。それはきっと、“速さ”とか“多さ”とか“大きさ”とかの既存の度量衡で測定できるようなモノじゃないんだろうけど、確実に言えるのは、この1ヶ月前の自分と今の自分は別人だろうと言うことだ。単純に、「知らなかった事を知った」という部分もあるには違いない。でも、本に書いてあった知識を得たからと言うよりも、それらを通して、「新しいモノの考えかたを手にいれた」みたいな感じなのだ。それも、単純に、書いてあったことをそのまま真似をするというのではなく(本に書いてあるのと全く同じ状況に身をおく事なんて有り得ないので当たり前だけど)、アナロジー思考で自分の事に置き換えて考えつつ、その作者が書いている思考の変遷をアナロジーするような感覚が磨かれるような感じと言うか、とにかくそういう感じなのだ。

こんな風に何度も書いている『感じ』だけど、これがどうやら人にはとても伝わりづらいし、これを伝えるのがめちゃくちゃに下手くそなのが俺の中の課題だったけど、それを伝えられる概念を手に入れる事ができたのも、今年から始めた目標値を定めた読書の効果なんだなあとあらためて感じている。

こんな風に、自分の中の課題を解決できるモノに繋がる何かが、読書の中には転がっている可能性が極めて高い。こんなことは恐らく誰でも頭では分かっている事なのだ。もちろん、俺もそれは知っていた。そして、そういうヒントがどくしょだけじゃなくて、その他の様々な体験でも得られるという事ももちろん知っている。ただ、そういう自分の中の課題解決に繋がるヒントを得られる何かしらの体験は、往々にして、偶然にしか起こり得ない。それを意図的に起こすのは難しいしのだ。何しろ様々な行為で得られる体験は、そもそも何らかの課題解決に役立つように設計はされていないからだ。基本的に、全ての行為はその行為を成すために、それらの体験をするという事が目的にしか作られてでいないのだ。でも、本は違う。ただ書きなぐられただけのモノもあるにはあるが、そもそも本は書いた人が、読む人に、何かを届けたくて書いているモノだ。読者が想定されて産み出されているモノだ。作者が何をどう言ったところでそうなのだ。つまり、読者である受け手が何かを変えたと得られるように作られたモノだ。ということは、それを読んだ人が、その人の課題解決に繋がるヒントを得られる可能性は極めて高い。読書以外の何らかの体験と比べても、そもそものベースが違うのだ。

そんな、極めて当たり前で、誰でも知っているような事に、あらためて気がつかされた1ヶ月だった。

これに、「気が付いた」と言ってしまった俺は、この読書という極めて有用な体験を今後も続けていくしかないのだ。それをしないと言うことは、自分の可能性を広げようとしないという事になってしまうし、そんなヤツが「世のため人のために事業をしようとしています」なんて言ったところで何の説得力もないし、そもそも自分自身に嘘偽りの臭いを感じ取ってしまう事になるのだから。

さあ、ツラく厳しいけど、楽しくて明るい未来が待っているぞ。そう信じて進むのだ。