シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

真っ赤な真っ赤な血の色をした希望の道


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レーニングは俺にとって何なのか?そんな事を考えた。

レーニングをすることで、俺は体を鍛えている。これはもう間違いない。体を鍛える事で得られるのは、力強さ。健康。良いスタイル。そんなところか。だけど、これは本当何だろうか?それ以外のモノを手に入れるためにトレーニングをしている人がいるんじゃないだろうか?そんな事を考え始めたのは、ジムでよく見かける人達を何気なく目にした時だった。

俺がジムに行かなくなった夏頃からジム通いを再開した12月頭までの約4ヶ月間で、体が変化していた常連さん達がたくさんいた。そういう人を見ていると、「なにがしかの目標の為にしっかり己と向き合ってトレーニングに取り組んでいたんだろうなあ」とこれからの自分のモチベーションになる感覚があるのだ。
片や、この期間でも全く体型の変化が無い常連さんたちもたくさんいる。というか、その人達は、もうずっと前からかなり長い時間、体型の変化が無い。もちろん、ジムにはいつも来ているのだ。でも、ずっと変化が無いのだ。
両方の人達に共通するのは、頻繁にジムに来ていて、ジム内ではよく見かける。そして、一生懸命トレーニングをしているのだ。誰もがキツそうにトレーニングをしている。

しかし、体に現れている結果は全くの逆ベクトルが働き、その差は歴然。
じゃあ、一体なぜこんな事が起きるのだろうか?

そこには、人間の中にある様々な要素が関係してくるけれども、恐らくこういうことなんじゃないのだろうか。

レーニングをするのはツラいし、体に結果として現れるまでにとても時間が必要だし、何よりも大変だ。運動するのだけでも大変なのに、栄養も考えないといけないし、そもそも、何のためにこんなにツラいことを日々続けていかないといけないのか。
こうやって、本来の意味を失っていくことで、いつしか『体を鍛えるという行為』や『ジムに来て体を動かす』とかそもそも『トレーニングらしき動きをオリジナルの動きで行う』ことにすり変わっていき、いつの日か、オリジナルに考案したトレーニングに似てはいるが全くの別物であるへんてこな体操を一心不乱に行うオジサン、すなわち“オリジナル体操オジサン”が誕生するのではないだろうか。

そんな、オリジナル体操オジサン達を見ていたら、「俺にとってトレーニングは一体何なんだろう?」と考えてみたのだ。

もちろん、まだこの答えは明確になってはいない。でも、単なる体を鍛えるだけの意味ではないだろうというのは分かっている。体を鍛えてカッコイイ体になるという以上に、1セット毎どころか1レップ毎に、自分と勝負していき、それを積み重ねていく。そんな、キツくもあり楽しくもある、己の血反吐にまみれた真っ赤な真っ赤な血の色をした希望の未来に通じる道。それが俺にとってのトレーニングなのかもしれない。そんな事を考えたのだ。

願わくば、そんなにツラい道のりじゃなくて、もっと才能というギフトに溢れたすいすい進める道があったら通ってみたかったなと思いつつ、もちろん、「そんなわけねーからショッパイ味がするんだよ」とわかっちゃいるけども、願わずにはいられない。そんな気持ちだ。