シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

動かざること行列と渋滞の如し


f:id:shiotapathos:20190916064740j:image

車で隣県に出掛けた。

普段生活している場所から車で1時間半程移動すると、全く見知らぬ土地に出る。
まあ当たり前の話なんだけど、これがなかなか新鮮だ。

生まれて初めて通る道、生まれて初めて見る景色。こういうモノが山ほどあるから知らない場所に出掛けるのは楽しい。

住んでいる場所は地方都市なので、自然もすぐ身近にあるけど生活必需品を買えるようなお店もそれなりにあって生活はしやすい。もちろん車は必須だし遊ぶ場所は無いけど。つまり、いわゆる田舎。そんな場所で暮らしているので、出掛けた先でも目の前に広がる山々の景色には親近感を覚えるのだ。ただ、普段から目にしている山とは様子が全然違うので(場所が違うから当たり前なんだけど)とても新鮮な気分で、「すごくキレイな景色で、ずっと見ていても飽きがこないなあ」なんて事を思ったのだ。

そして、ビックリした。

景色を見て、そんな感想を持った自分について。

今まで、景色を見て、山を見て、そんな事を思った記憶が無いのだ。それなのに、とても自然に出てきた感想だったのだ。これにはとてもビックリした。
俺は、そんな山に思い入れは無い。山登りをしたこともなく、山で遊んだ事もほぼ皆無だ。虫もそれほど好きじゃないし、どちらかと言えば山は恐れの対象ですらある。そんな山を見ていて「キレイ」とか「ずっと見ていたい」なんて思う日が来るとは。

俺は自己認識として、『動くものが好き』だと思っていた。映画を見るならアクションモノだし、スポーツを見るなら目まぐるしく攻守が入れ替わる競技が好きだし、試合の展開も攻防が激しいのが好きだし、スポーツで体を動かすのも好きだ。ゲームをするならアクションモノか格闘モノだし、山よりも海が好きだし、乗り物も好きだ。そんな風に、自分の好むモノは『動』の性質を持っているんだと思っていた。でも、山を見て「好いなあ」と思ったというのが我ながら衝撃だった。

だけど、よくよく考えたらそんなに不思議な話でもないのかもしれない。

そこにずっと存在している山。山自体は動かない。ずっとそこにあって、遥か太古の昔から時間の流れをずっとそこで見ているのかもしれない。でも、その山を囲むそれ以外のモノは全て動いている。
山を照らす太陽はもちろん、山を覆う雲やそこから降る雨も、涼しくも凍えさせるも自在の風も、そんな風に天気は目まぐるしく変わるし、そこに生えている木も草も、流れる川も、暮らしている動物も人も全部性質は『動』。

「山はずっとそこにある」という言葉から連想してしまって、性質を『静』と考えてしまっていた俺の発想の貧困さ。それが原因で、これまで山に興味を持てなかったのかもしれない。それに気付いた休みの日。

そんな、山に囲まれたキレイな景観のその場所は、某有名な観光地。三連休の中日ということもあってか、どこの飲食店も引くくらいの混雑具合いで、恐ろしく長い時間を『静』の状態で待つという修行の末、なんとか飢えをしのぐことができた。下調べなしで、思い付きで出掛けるもんじゃないなあといのが今日の最大の教訓だったのは言うまでもない。