シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

お祈りしてると手が塞がって何にもできなくなっちゃうんだよね


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段々と見えてきた。何でそういう言動になるのかが。

ちょっと前までは、本当に全く理解のできない言動をする人達がこの世界にはたくさん溢れているんだなあ、なんて思っていたんだけど、ここ数日で、その理由が解明されつつあるのだ。

とは言っても、あくまでも俺が立てた仮説に過ぎないのでこれからそれを検証していくんだけど、既に幾つかのサンプルについて検証したら、ほぼ間違いがないという結果になっているのだ。

そんな、俺達が今直面している新しい仮説のそもそもの始まりは何か?
「なんでそんな発想になるのか理由が全くわからない」と思うしかないような突飛すぎる発想の飛躍に感じるような言動をする人達の、その発想の大本は何か?

それほ、恐らく『信仰』なのだ。

信仰と言っても、既存の宗教や信仰に基づくものではない。突飛に見える言動をしているその人の中にある、その人だけに見えている特定の信仰対象を信じているのだ。それは、過去の成育環境やそれまでに触れてきた文化が大きな影響を与えているのは間違いないけれど、でも、それだけではない。なぜなら、そんな突飛な言動をする人は同環境で育ってきた人の中でも少数派だったりする例も多々あるからだ。

じゃあ一体何が理由なのか?

それは今まさに検証中だけど、恐らくこの信仰は、本能に近いものなんじゃないかと俺は考えている。正確に言うと、信仰自体が本能なのではなくて、何かを信仰する事によって己を正当化したり強化したり、もっと言えば、他者よりも自分が優れている事の拠り所を手にいれるための信仰だ。

だから、その信仰対象はハッキリ言って何でも良かったりするのだ。

例えば…、いや、例えについては書くのを止めておく。これは、本当に様々なモノがあてはまってしまうから。

とにかく、そんな仮説を今、検証しているところなのだ。この見方をしていくと、今まで不可解だった言動が、すんなり理解できるようになってしまうのだ。そうすると、何ら不思議は無くなるし、あまりにも理解不能過ぎて怒りさえ覚えていたような他人の言動に対して、「ああ、そういう事か」と、一切の感情を交えず、と言うか、若干の同情心さえ持ちながら、その言動に対応する事が可能になるのだ。

そんな風にできたら、トラブルが起きる可能性は、グッと減らす事ができるんじゃないだろうか。

夢の“平和”まで、あと少し。

なのかもしれない。