シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

本当に邪魔で必要ないのは一体何なんだろうね?


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自分がやっている事は、一体何なのか?

こんな事をよく考える事がある。

『世のため人のためになる仕事』をしている人はたくさんいる。そういう仕事はこの世界にたくさんある。だけど、その仕事はこれから先、この世界にずっと存在し続けた方が良いのだろうか?

例えば、今、目の前で現に困っている人がいたら何らかの手を差し伸べる。これは、もう何も言うまでもなく、間違いなく誰かのためになっている。そういう現に困っている人が目の前にいる限り、続けていける限り、続けていくことが大事なはずだ。

だけど、それと同じように、それを仕事にしているのなら、その困っている誰かが、いつかこの世界から一人もいなくなる事を願い続ける事も大事なはずなのだ。

「いつか、自分がしているこの仕事で助かるという人達が誰もいなくなる事を願って」。そんな願いに支えられて行われるその仕事はとても尊い

だけど、『仕事=ビジネス=金稼ぎ』として捉えている人がいる限り、「その仕事が無くなっては困る」と心底願っている人がいるのがこの世界だ。現に困っている人に差し伸べる手があるんだから別にいいだろうと考える人もいるんだとは思うし、現に助かってる人がいるんだからそれでいいのかもしれないんだろう。だけど、それがある限り、その困り事は、この世界から無くなる事は有り得ない。そういう人がいる限り、困る人がいなくなったら金が稼げなくなるから、困る人がいなくならないような手の差し伸べ方をするだけだ。一見すると、困っている人の困り事が解消するように見えているかもしれないけど、その実、根本的な解消には絶対にならないような一時凌ぎ的なとても刹那的な解決方法を提示して、これから先、何度も何度も同じ様な困り事が発生する構造に陥り続けるような手の差し伸べ方をするだけだ。そんな、一見するととても分かりづらい巧妙な『負のスパイラル』が、この世界にはたくさん存在している。

この話はまるでパラドックスのようだけど、本当ははそんなに複雑にはできていないのだ。とても単純な話なのだ。ただ、沢山の人が関わる事になるから、とても難しく見えてしまって、それがパラドックスのように見える原因なのだ。たくさんの人が、全員、全体最適について考えられればこのパラドックスは起きない。起きるはずがない。だけど、それでは“儲からない・得をすることができない・損をする”と思って己のための部分最適の行動をしてしまう人達がたくさんいるだけなのだ。それによって、『複雑怪奇で巨大でとても抗えないような恐ろしい構造』が見える気がしてしまうだけなのだ。

自分がやっている事は何なのか?それを成し遂げるには何をする必要があるのか?

それを考えてそれをするだけ。

それが、この世界を今より良くするために俺にできる事の全てなのかもしれない。