シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

そこのけのけもののけがとおる


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どこの誰であろうが大抵の人はこんな状態にある。

問題を抱えている人や人の集団を、外部から見ると、抱えている問題がどこにあるのか、何が問題なのかが、一目瞭然だ。だけどなぜか、当事者達にはその問題が全く見えていない。

この現象は本当に面白いほどそこかしこで起きている。これはもう、どんな人や集団であっても必ず起きているのだ。問題が無い人や集団は、ごく稀に存在するけど、その『ごく稀』に該当するケースに当人達が気付けている状況というのは、ほぼ存在しないと言っても言い過ぎじゃあないはずだ。それは、組織について書いてある専門書を読むと明確に分かるし、もちろん、外部から人やその集団をキチンと見ることができれば明らかだ。

だけど、多くの人は、自分と自分が所属する集団は、『ごく稀』に該当していて更にその状況に自分達が自覚的であるという超希少種だと信じて疑わないし、疑えない。外部から見ると、明らかな問題が山積みになっているのが明確なのに。

当事者でいながら、客観的に冷静に自分と自分の置かれている状況を見極める。これができるようになるには、まず、これができていないかもしれない自分という自分を受け入れるところからしか始まらないはずなのだ。できていないかもしれない自分から始まれば、どこがどうしてできていないのか見えてくるかもしれない。だけどこの時に陥りがちなのは、自虐的に「自分なんてできていない」と思ってしまうことだろう。受け入れるのと自虐は、似ているように見えるけど、全く別の事だ。自虐になってしまうと、これもまた客観的に冷静にモノを見ることは叶わない。

できていない自分とできている自分。どこがどうしてできていないのか、どこはどうしてできているのか。これが見えるようになれば、問題を把握して解決に向かうのは容易になる。

そんな、言うなれば当たり前の事が、とても難しい世の中なんだなあ。あらためてそういう感想を抱いた。もちろん、こう言っている俺は外部から、他人とその集団を見ているから気付けているだけなのかもしれないけど。

ただ、「自分の事は分からないからさ」なんて棚上げする気は1mmも無い。自分の事を評価する時には誰よりも厳しく評価しようとは思っている。自分が安易に『超希少種』認定をしてしまっていないかどうか、よくよく検証しなければと思おうとしているつもりだ。よく分からなければ、仲間に評価を仰ぐ。間違えないように。見誤らないように。

こんな時、俺の頭の中ではいつも鬼太郎がこう言っているのだ。

「見えてる世界が全てじゃない。見えないモノもいるんだ」

いつだって妖怪がどこかにいるし、俺には妖怪は見えない。かもしれない。