シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

ようやく気付いたのはお別れの時だった


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自分で認識していた自分像が、如何に不確実なのかについて、あらためて理解した。

少し遅いお昼ご飯を食べるために、よく行くお店に行った。土日のランチタイムはいつも混んでいるけど、今日はタイミングが良かったのか待ち時間があまり無く席に案内してもらえた。そして、いつも通りメニューを開いて、いつも頼む幾つかの中から決めようと思った。

そしたら何と、メニューが変わっていたのだ。

もちろん、メニュー表の見た目も思いっきり一新されていたけど、それより何よりその店の売りだと思っていたセットメニューが無くなっていたのだ。これには驚いた。と同時にとてもガッカリしたのだ。何しろ俺がこの店を好きな理由がそのセットメニューだったからなのだ。

同じジャンルの料理を食べられる店は近場にもたくさんある。だけど、他の店に無くてこの店にある俺にとっての最大の魅力は、あのセットメニューによって得られる満足感だったのだ。もちろんそこには“お得感”が大いに影響しているし、そのお得感のあるメニューを惜しげもなくいつも提供してくれる度量の広いところとか、年季は入っていつつも趣のある昔のお洒落な洋風な感じでいつつ子ども連れでも全然気にしないで居られる懐の広さとかが気に入っていたのだ。ファミリー向けだし大衆向けでありながらも、ちょっとした“非日常感”を醸し出してる辺りが好きだったのだ。

もちろん、味も変わらなければサービス内容も変わらなかった。雰囲気も何も変わらない。ただ、お得感だけが失われた事で、他の店と比べた時の差が無くなって、「外食する時と言えば」の固定枠では無くなった感じなのだ。まあ、選択肢が広がったと言えばそうなのだ。ただ、あのリーズナブルなのにこのお得感!的な満足度は無くなってしまったので、ただただ、他のお店と比べた時の満足度をどう感じるかだけになってしまった。

もちろん、これはカネの無い大衆の中のとある貧乏家族の父親が口にしているだけのどうでもよい愚痴に過ぎない。経営的観点で見たら、全く別の角度からの意見が山ほど出てくるのは分かってる。と言うか、何なら今日そのお店でご飯を食べながら色々考えたし、結果としては恐らくこの会社の経営的にはとても良い打ち手だったんじゃないかなあとは思ってる。ただ、俺が行く頻度が極端に少なくなるというだけだ。でも、地元の人達は恐らく変わらず通い続けるんだと思う。このお店に行く理由が俺とは違って、味とか懐かしさとかだと思うから。ずっと通っていた人達には、俺の言う満足度とは別の指標が備わっているのは理解している。だからこその経営判断だろうし、だからこその寂しさがあるのだ。

あのセットメニューを続けてきたのには理由があるはずだ。そして、メニューを変更したのにも理由があるはずだ。そこについては推測の範囲を越えないけど、続けてきたセットメニューを止めざるを得ない退っ引きならない理由があったんだろう。とても寂しいけど仕方ない事だ。

俺は、今日までこの店の全部を好きなんだと思っていた。上に挙げたような事に加えて、老舗だとか地元に愛されているとかその割にはメニューが豊富なところとか何を頼んでも美味しいところとか。だから尚の事ショックなのだ。セットメニューが無くなっただけで、「多分、もう来ない」って思った事が。それがとても寂しいのだ。

好きになる理由は様々あるし、変化する理由も様々ある。それでも、存続していくというのは困難が伴うけど尊い事だとも思う。だから、このまま地元に愛されて続いていくと良いなあと願っています。

お店の前を通るときには、好きで通っていた時期の思い出を懐かしみながら。

またいつか。