シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

冷静と情熱の間には大きな隔たりがあるのかもしれない


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新年2日目に、親戚が集まっての新年会があった。

人が集まって、お酒を飲んで、ご馳走をいただいて。年を跨ぐというだけで、とてもめでたいような気分になるのはなんでなのかはよくわからないけど、めでたい気分になるんだから不思議だ。年末は、一年の終わり感があるし、正月は、一年の始まりでめでたい感がある。これらの感覚が、生まれながらに持ち合わせている訳は無いので当然暮らしのなかで身に付けたモノなんだろうし、目に耳にしてきたメディアや文化によって培われたモノであることは間違いない。だから、「そういうモノだから」という一言で終わってしまうようなモノなんだろうけど、それにしても、不思議だなあとあらためて思う。もちろん、メディアに煽られまくっているのは当然として、それでもあの、年末に感じる『何かが終わる』ような物寂しい感覚と、年始に感じる『新しく何かが始まる』ウキウキするような感覚は、恐らく色んなメディアを通じて目にする世界の様子を見てると、この世界のどこでも同じように、何かが終わって何かが始まるこの感覚を共有しているのかなと思ったりする。

とは言え、そんな世界のおめでたムードとはあまり関係なく、はたからみると全然おめでたくないような新年の過ごし方をしていた俺がここにいる。年の始めから、甥っ子が持ってきたニンテンドースイッチなる新型のファミコンのようなゲームで、マリオカートのレースで真剣勝負。挙げ句、小学2年の甥っ子がゲーム中に「何で俺、正月からゲームなんてしてるんだろ?」と呟くのを聞いた。その時の俺の気持ちたるや。挑まれたから、仕方なく初めてニンテンドースイッチに触れ、昔とった杵柄で何とか対応しつつ!段々「面白いな」と思い始めてきた矢先に、小学2年生が先に現実を見つめ直す。そして、「ゲームなんていつでも出来るしなあ」なんて、とても大人びた事を言っている。どんな事をするのが正月なのか?と聞いてみたら、キャンプをしたりスキーに行ったりそういう事をするのがおめでたい時にやった方が良い事なんだと、そんな事を言っていた。彼は、翌日から2泊でスキー旅行に行くらしい。

年末年始にどこにも行かず、甥っ子とゲームをやっている自分をあらためて見つめ直す良い機会になった。まあ、色んな過ごし方や生き方があって良いことだ。うん。多様性。これしか言うことは無い。

寂しく物悲しいとか、おめでたくてウキウキするとか、それはきっとそれほど大切な事じゃないのかもしれない。大切なのは、本当は何がしたいのか?それは何でなのか?そういう事だけなんじゃないのかな。それが例えいつだろうがどんな時期だろうがそれもそんなにどうでも良いことなのかもしれない。今、この時が心から楽しめていればそれで良いのだ。それがスキーだろうが、ゲームだろうが。そんなのはどっちだって何だって構いやしないのだ。

甥っ子とゲームをしていて、そんな事を考えさせられた新年会だった。