シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

どうかゆっくり休んでください


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昔の知り合いが亡くなったと風の噂で聞いた。

亡くなる人には、それぞれの亡くなる理由が、それこそ無数に存在するが、その人がどうして亡くなったのかは俺には何も分からない。ただ、その事実だけが情報として聞こえてきただけだから。

俺は、その人と特別親しかったわけではないし、個人的にとてもお世話になったとかそういう事も特に無い。ただ、その昔、まだ自分が若かった頃に同じ場所で同じ事をしていたし、その時に一緒にそれをやったり話したりした事があるという位の関係性だ。だから、訃報を聞いて涙が出るとか、悲しみで気持ちが落ち着かないとかそういう事は無い。ただ、昔の事を思い出したし、その思い出したあの人はもういないんだなあと思っただけなのだ。

特別な思い出も無いし、悲しみでいっぱいな訳でもないのに思い出しているなんて自分の事ながら不思議な感じではあるけど、実際にそういう心持ちになっているので仕方ない。ただただ、「いなくなっちゃったんだなあ」と思うだけなんだけど、俺の思い出の中ではいつも笑顔のイメージしかないので、思い出すあの人の顔はいつものあの笑顔だけなのだ。それと、独特のテンションで話すあの人の声と、誰にも真似できない次元の求道的な生き方。

俺があの人に最後に会ったのは、もう10年以上前なので、多分あの人と親しかった人達が持っているイメージとはたくさんの違いがあるんだろうけど、俺からすると俺よりも何歳も若いのに尊敬できる人だったし、それでいてとても親しみ安くて威圧的な感じがしないけど、どこか浮世離れをしていて掴みどころのないような感じの人だったなあという感じだ。

理由も何もわからないし、あの人が何を感じてどんな事を考えていたのかも俺には何もわからない。だからと言って、俺が、何も感じない訳でも何も考えない訳でもない。色んな事が思い出と一緒に少しずつ浮かんでくるような感じはするけど、笑顔しか思い出さないので、訃報が事実だと確定した今でも、俺には特に実感が沸いてこないのだ。まあ、だから何だと言うわけでもないけど。

書いてはみたものの、自分でも何が言いたいのかも分からないし、何を思っているのかもよく分からないけど、一つ言えるのは、昔の知り合いの訃報を聞いても自覚できるほどの悲しみの感情が沸き上がってこない自分について「薄情な人間」だなあと思うとともに、そのわりにはこんな文章を書いてみる事で、自分自身の中で追悼しようと思っているのだろうなという事が分かってきたという事だ。追悼しようってんだから、多分、悲しいんだろう。これも悲しさの一つの形なのかもしれない。自分について自分でそう思う事にしておこう。俺みたいに、あの人との関わりがとても薄かったであろう人間でもこうやって思い出す人間もいるのだ。だからきっと、俺以外の人達もたくさんあの人の事を思い出しているんだと思う。それくらい色んな人に影響を与えたんだろうし、好かれていたんだろうし、憧れられていたんじゃないんだろうか。

みんないつかは必ず死ぬ。どんな風に死ぬかは分からないけど、間違いなくみんな死ぬ事だけは確かだ。

「どうせ死ぬんだから」

この言葉の後に、どんな言葉を持ってくるのかは自由だ。持ってきたその言葉通りに行動するのも自由だし、しないのも自由だ。

俺は、どんな言葉を持ってきてどんな行動をするのか。今は、確固たるやるべき事とやりたい事が明確に定まっていると感じているから、どんな言葉を持ってくるかもどゆな行動をするかも、今は、決まっている。だけど、これも変わるのかもしれない。変えようとは思っていないけど、いつか変わってしまう可能性はあるかもしれない。それが無いとは言い切れない。もちろん、今の俺は「いや、無いよ」とハッキリと言い切るけれども、未来の事は誰にも分からないのだ。

『死』は誰にとっても大きな問題だ。問題というと誤解を招くかもしれないけど、生きていく上でこれはとても大きな“問い”なんじないかなと思っている。それが、有名人の死や、知っている人の死や、近しい人の死によって、目の前に否が応でも突きつけられる瞬間がある。俺にとっては、この訃報がそれだったのかもしれない。

そんな機会として、しっかりとあらためてその“問い”について考える事を持って、あの人の追悼としようと思う。

どうか安らかに。お疲れ様でした。