シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

できるなら、この世界でも穏やかな顔で生きていきたいんだよね


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「期待すると痛い目にあう」

この後に続く言葉をどうするか。それが悩みどころだ。

例えば、ディーラーで新車を買った時には、担当の営業さんがとても丁寧に感じよく接してくれたし、「何かあったらいつでも言ってください」と声かけしてくれるので、いざちょっとした不具合があった時に電話で連絡をすると折り返しが無かったり、メールを送っても返信が無かったり、タイヤ交換をお願いしたら2ヶ月待たされた挙げ句に、「お店にタイヤの保管場所が無いからお届けに上がりました」と自宅まで届けに来てくれたり。もちろんこの時にタイヤ交換をしてくれるわけではない。また後日、きちんと予約をした上でそのタイヤを持って交換に来てくれと言い残して帰っていく営業さん。こんな話があったり。

例えば、とある商工会にお金を払って入会した時に、対応してくれた担当者から「次の会報の新規入会会員として紹介ページに掲載させてもらいますので、後日、取材に伺います」と言っていたけど、待てど暮らせど一向に来ないまま数ヵ月が過ぎたので、その件がどうなったかをたまたまそこに行ったときに話を聞こうとしたら、担当者には「どちらさまですか?」と怪訝な顔で聞かれた上に「今、忙しいので」と対応してもらえなかったので、他の職員さんに聞くも、「担当じゃないので」と半笑いであしらった挙げ句、「アポイント取ってから来てください」と呆れ顔で言い放つ職員さん。こんな話があったり。

こんな話を、体験者から聞かされた時に、その人は「期待した自分がバカだったんたよね」というような事を言っていたのだ。そして、俺はその時に、「自分と同じレベルの仕事を他の人に求めちゃダメ」というような事を言ったのだ。その時は本当にそう思ったから。

だけど、本当にそうなんだろうか?
本当に、期待しちゃダメなんだろうか?

と言うか、そもそも、期待するってどういう事なんだろうか?

この話の後、自分で考えてみたら、俺は他者に期待している気がするのだ。「こうしてくれたらいいなあ」とか「こんな風にやってもらえたら嬉しいなあ」とか。そう思うんだからきっと期待しているんだと思う。だけど、それと同時に『諦め』のようなものも持っている気がするのだ。

「だけど、○○だから難しいだろうな」という様に。

この時の、○○には様々な事が入るのだ。その人と接した俺が受け取った何かを元に某かの分析によって弾き出した仮説が入るのだ。もちろん、「難しいだろうな」にならない場合もあるのは言うまでもないけれど。

こんな風に、期待と諦めを同時に持っていられる場合には、期待が実現しなかった時でも『怒り』や『落胆』が発生することは無い。なぜなら、仮説通りの事が起きただけだからだ。
だけど、もし、期待した事が実現したら、こんなにスゴくて嬉しい事はないだろう。

つまり、こちら側の心もちとしては、最強なのだ。どう転んだとしても、自分にとってはマイナスが起きないのだ。なぜなら、仮説が当たるか期待が叶うかの二択なのだ。どちらにしても、良い状態が待っている。

そう考えると、「期待しない」というのは得策じゃない気がするのだ。
そして、同時に「期待する」だけの状態も危うい気がするのだ。

だから、痛い目にあわないようにするためには、「期待と諦めをどちらも持つ。根拠に裏付けられた仮説を持ったうえで。」というのがより良い状態なのかもしれない。そうしたら、自分が嫌な目にあう前に、何らかの手立てを講じることができるはずだから。

できるだけ心穏やかに暮らしていきたいというのが俺の切なる願いなのだ。