シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

行くぜ行くか行こうよ

f:id:shiotapathos:20190705065427j:plain

 

体が鈍って来た。

 

昨日は寝不足、今日は仕事。二日続けてジムに行ってない。その前の日は行ったけど、それより前は5日休んでいた。そんな感じでここ1週間はほぼジムに行っていないので、体が鈍って来ている感覚が強くあるのだ。そして、それに釣られて、気持ちも鈍ってきているような気がする。

 

よくある感覚だ。ずっと運動していたのを、何かを理由に行かなくなるとその後再開するのがめんどくさくなる現象。この現象はいつも厄介だ。これに引っ張られると、その次の一歩が踏み出せなくなる。そして、色んな言い訳を自分にして、段々と遠退いていく。

 

これは、ジム通いだけじゃなくてこれまでの人生の中でも同じような事がたくさんあった。それらはどれも続ける事や行動する事にある程度強めの意志が必要な事ばっかりだった。ロードワークや勉強や早起きや読書など。何かを習慣化させようと思っている時、決まってやってくるのだ。それが例え、「どれだけ自分の為になることだ」「必ず後で役に立つ」「今やっておけば」という類の事であっても、習慣化する前に己の惰性が勝つことが多かった。そうするとやってくるのはいつも決まって、自己嫌悪だ。

 

「ああ、またできなかった。俺はなんて意志薄弱なんだろう」そんな風に自分に対する評価を下げる事に繋がっていた。

 

だから、ある時期を境にそれはもうやめたのだ。習慣化しようとする事はやめていない。やめたのは、継続が途中で途切れても自己嫌悪しない事だ。これによって自己評価をそれより下げる事にならなくなって精神衛生上助かっている。それを自分に対して言うというのもいまいち意味はわからないけど、実際にそうなのだから仕方ない。

 

それと同時に、その時新しく始めた事もある。

 

継続できなかったタイミングが生じてもそこで諦めないでもう一度始める、という事をやり始めた。

 

一度途切れたからと言ってそこで終わりにしなければいけない決まりは無い。何しろ、全ての事は最終的に目的が叶えば良いのだ。別に、毎日の継続ができようができなかろうがどっちでも良いはずなのだ。それなのに、いつの間にか“継続する”という事が目的になってしまっていたのだ。そんなモノはどうでも良い。それよりも当初の目的が叶えば、毎日継続してようがそうでなかろうがすごくどうでも良いのだ。だから気にしないで、また始める。また途切れてもまた始める。またまた途切れてもまたまた始める。この繰り返し。

 

これをやるようになって、逆に「俺、結構すごいんじゃね?」そう思う機会が増えたかもしれない。そんな時、頭の中に流れるのはこの歌だ。

 

 

何度でも立ち止まってまた何度でも走り始めればいい

必要なのは走り続けることじゃない走り始め続けることだ

 

 

これは、竹原ピストル『オールドルーキー』という歌の歌詞の一部。

 

止まろうが休もうがまた走り始めればこの勝負は終わらないのだ。そしたらいつか、手に入れたいモノに手が届く瞬間がやってくるかもしれない。俺は、そんな風に受け取っている。

 

勝負が終わるのはいつだって、俺が負けを認めた時だけ。だから、絶対負けないのだ。なぜなら俺は往生際が悪いから。負けなんて絶対認めない。例え誰から見ても完全に負けていようとも、俺は負けを認めない。絶対に勝てなくても負けない。


そんな事を思いながら、また朝から「今日こそジムに行くぞ」と自分に言い聞かせるのだ。