シオタの塩分過多な日常

シオタです。「しょっぱい自分が、塩分過多な毎日をどう過ごし、いかに楽しく生きていくか」がテーマです

後楽園球場で僕と握手ってアレやってみたかったんだよなあ


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きっと、100年待っていたってこんな瞬間は来なかったに違いない。

俺が手を伸ばして相手の手を掴もうとしたら、向こうからも手が伸びてきて俺の手を掴もうとする意志を感じた。だから、やっとの事で手と手で掴みあうことができたのだ。そんな感覚があった。

それまでは、俺の手を掴みに来て欲しいと思っていた。何故ならば、俺はいつだって思いっきり手を伸ばしているんだから。そう思っていた。一点の曇りもなく、そう思っていたのだ。

今から考えれば、何をどうしたらそんなに傲慢な事が頭のなかに浮かぶのかと我ながら不思議になる程には理解できないんだけど、ほんの1週間前には自分がそんな風に考えていて、しかも、今は全くそんな事を考えられもしないというこの自分自身のギャップが若干信じられない気持ちだ。
だけど、これは紛れもない事実であり、失礼極まりない話だし、無礼にも程がある。あまりにも恥知らずな所業だし、考えが浅すぎる。

自分自身についてそんな風に思えるのだ。

俺の手は、もっと伸びた。伸ばそうと思えば幾らでも伸ばせる魔法の手だった。それをせずに、相手から伸びてくる手を、さも当たり前かのように待ちに待ってしまっていたのだ。相手がその手を伸ばしてくれるかどうかの確信も無いままにどれだけ相手を信じていたのか。
いや、結局、信じていた訳ではないだろう。そこには信頼があったわけではなくて、「相手も手を伸ばすのが当たり前。俺だってやってるんだから」。そんな、とても身勝手で、自分の都合ばかりを考えて、自分の理想の姿を相手に押し付けていたのだろう。

そんな、最低最悪で、まさに老害認定されてもなんら不思議の無いオッサン丸出しの頭の中を晒しながら生きていたのだ。あまりにも醜悪、あまりにも見苦しい。

だから、自分自身が見苦しくならないように、自分で自分を認められるような、いわゆる『美学』を体現していたマンガの登場人物のように生きていきたい。そんな事を考えていたのだ。

それから、やってみた。

やってみる迄はとにかく大変だった。まず、自分を1回ぶっ壊す。全部一旦やり直し。そして、そのあと『美学』を元に建て直す。まさに、スクラップ&ビルド。このやり方なら全くなんの見苦しさも無いという分けでは決して無い。でも、これが転機になって、色んな起きるかもしれない。だけど、その時にはもう1つ忘れずに必要になるものがあるかもしれない。相手も同じように、出来る限りの範囲で手を伸ばしてくれるという事だ。

これができれば、後は段々とできるようになっていく。でも、やり続けないとその瞬間は訪れない。絶対に。

だから、100年だろうと1000年だろうと、待ってるだけじゃあどうにもならない事が多いのだ。

何とかしたければ手を伸ばせ。相手から、いつかきっと手が伸びてくる事を忘れずに。諦めずに。手を伸ばし続ける事。

あとは何にも出来ないけれど、それが出きるから最終的にいつも生き残ってるんだな。